神戸地方裁判所 昭和47年(ワ)189号 判決 1975年9月04日
原告 重田秋春
原告 重田伊津子
右両名訴訟代理人弁護士 西川晋一
被告 兵庫県
右代表者知事 坂井時忠
右訴訟代理人弁護士 奥村孝
右訴訟復代理人弁護士 小松三郎
同 石丸鐵太郎
主文
原告らの請求を棄却する。
訴訟費用は原告らの負担とする。
事実
第一当事者の求める裁判
(原告ら)
一、被告は原告らに対し、各自金四〇〇万円宛および、各内金三七五万円に対する本訴状送達の日の翌日から完済まで各年五分の割合による金員を支払え。
二、訴訟費用は被告の負担とする。
との判決並びに仮執行の宣言
(被告)
主文同旨の判決
第二当事者の主張
(請求原因)
一、原告重田秋春、同伊津子は訴外亡重田昭二(以下単に昭二という)の実父母であり、昭二は原告らの二男として昭和三三年八月九日出生した。
被告は、兵庫県立加古川病院(以下単に加古川病院という)を設立してこれを運営している。
二、本件診療契約の締結
昭二は、気管支喘息治療のため、昭和四五年一〇月九日より同月二〇日頃まで、および昭和四六年九月二日より同月二七日まで加古川病院に入院し、同病院に勤務する柴田医師の治療を受けていたものであるが、昭二は同年一〇月三日午後一〇時頃より翌四日午前二時頃まで喘息の発作が起り、これがおさまって間もなく腹痛を訴え出したので、原告らが右病院へ連れて行き注射をしてもらった後帰宅し、同日午前一〇時過ぎ再び同病院へ連れて行き同病院小児科で診察を受けたところ白血球が多いというので同病院外科へ廻され、同外科で右病院に勤務する窪田医師の診察を受けたところ虫垂炎と診断され、直ちに虫垂切除手術をすゝめられ、同日昭二の親権者である原告らと被告との間に昭二の虫垂切除手術(以下本件手術という)およびこれに附帯する処置を目的とする準委任契約が結ばれた。
三、本件事故の発生
前項の契約に基づき昭和四六年一〇月四日午後四時五分過ぎ頃、加古川病院に勤務する尾崎医師を主治医(執刀医)として、昭二に対し腰椎麻酔(以下腰麻という)を施した後本件手術が施行されたが、手術開始後約三〇分してから昭二は意識不明となり、手術終了後も遂に意識を回復することなく、同年一一月二一日午後一〇時三三分本件手術によってひきおこされた意識障害により同病院において死亡した。
昭二の直接の死亡原因は、加古川病院に勤務する看護婦が、昭二に対して流動食適量二〇〇ccを与えるべきところ、誤ってその倍の四〇〇ccを与えたために喘息の発作を起し、これが死に結びついたと思われる。
四、被告の債務不履行責任および使用者責任
(一) 被告は前記契約の債務者であり、前記柴田、窪田、尾崎各医師および前記看護婦は加古川病院における被告の履行補助者であるところ、柴田外二名の医師は喘息の持病のある昭二の虫垂炎の治療に当って、以下述べるように通常の医師としてなすべき措置を怠ったため、また看護婦は前記不注意により昭二を死亡せしめるに至ったものである。
従って、被告は債務不履行責任に基づき、昭二の死亡により生じた損害を賠償すべき義務があり、また、右柴田外二名の医師および前記看護婦は以下述べるような過失(同看護婦については前記過失)により昭二を死亡せしめたものであるから、被告は右医師らおよび看護婦の使用者として民法七一五条に基づいて昭二の死亡により生じた損害を賠償するべき義務がある。
(二)1 柴田医師について
小児科医としては、喘息患者に虫垂炎が疑われる場合は、外科医に患者の既応歴、経過を説明し診断を求めるべきであり、この場合、喘息患者はその起因、誘因、治療歴により各人各様の多彩な症状、併発歴を示すのでそれらについて可能な限りの実態を把握して外科医にコメントし、手術中の危険を警告するべきであるのに柴田医師はこの義務を尽さなかった。
すなわち、柴田医師は、前記の如く、昭二が加古川病院に入院中その喘息を治療し、同人の喘息の原因、性質、症状、発作の頻発する時期、発作の可能性等について少くとも或程度のことは把握しており、昭二が右病院を最後に退院した昭和四六年九月二七日、その前日、その前々日も強度の咳嗽および喘鳴があり注射治療を受けていたのであって右退院後もその症状が安心できるような状態ではなかったことを知らなかった筈はなく、同医師としては、昭二が夏から冬にかけて喘息の症状が悪化し発作が起り易いものであったことまでは判断できなかったとしても、同年一〇月四日当時が同人の喘息にとって警戒を要する時期であるということは前記二回にわたる入院によって判断できた筈である。
従って同医師は、昭二の診療を外科へ依頼したとき外科の担当医師らに対して、昭二の従来の診療経過、当日の病状を詳細に告げるとともに、手術中の危険を警告すべきであったのに拘らず、外科の担当医師らに対して、「喘息の患者である、今朝午前二時頃より下腹部痛を訴え午前六時に来院した、現在痛みはない」旨の院内診察依頼書を発行しただけで、積極的に昭二の喘息の症状等を告げ、手術について配慮を促すことを怠った。
2 窪田、尾崎医師について
(イ) 小児喘息の持病のある患者が急性虫垂炎に罹患した場合に、その治療を担当した医師としては、まず第一に急性虫垂炎が手術適応であるか否かを慎重に決定することが通常とるべき一般処置であり、患者に対しその既応歴、治療歴を認識したうえその喘息についての検査を行って喘息の状況を客観的に把握し、これによるデータをもとにして、(イ)この急性虫垂炎が内科的治療で緩快することが期待できるか、(ロ)多少の危険をおかしても手術をしてその禍根を絶つべきとすればその時期、どれだけの準備治療をするか、(ハ)麻酔法の選択等を考慮して手術適応を決定すべきである。
しかるに昭二の治療に当った窪田、尾崎医師らは昭二の本件手術の決定に当り右データの蒐集も手術適応についての検討も全くしていない。
すなわち、窪田医師は、柴田医師からの院内診察依頼書に「喘息の患者である」旨記載されていたのに、昭二や原告伊津子に対し喘息の経過、病状を問うこともせず、また柴田医師に対し従来の診療経過や現在の症状、昭二の喘息に対する意見等を照会することも行わず、更に、昭二に喘息の持病がありその発作が早朝よりあって体力もない旨述べかつ虫垂切除手術の安全性について危惧の念を表明した原告伊津子に対し、手術は非常に簡単だから大丈夫だと云って安心させ、昭二の喘息の症状把握ほか手術適応判断のため必要な前記検討を怠ってこれを全くしなかった。
(ロ) 次に、外科医は、喘息患者のもつ多彩な随伴症状を考慮に入れて診断し、術前検査として胸部X線、血液検査、心電図検査などをし、術中術後における併発症に可能な限りの配慮を加え安全を期するよう心がけ、とくに喘息患者の場合は喘息の既往症、治療歴を参考として術中術後における不慮の偶発症のおこる可能性を考えて可能な限りの配慮を加えて準備すべきものである。
従ってまた、窪田医師は昭二の喘息の症状および身体的状況からみて当然最も技倆および経験ある医師を主治医に指名すべきであった。
しかるに同医師は、心電図検査等の術前検査も行わず、また、喘息の原因が多種多様であってその患者の喘息の原因や症状如何によっては僅かの刺激でも喘息の発作を起す可能性のあることを知悉しながら、虫垂切除手術が外科手術の中では簡単な部類に属するものであることに気を許して、加古川病院の中では医師の経験が最も浅く技倆の未熟な尾崎医師を主治医(執刀医)に指名した。
(ハ) 尾崎医師は、窪田医師から本件手術の主治医に指名されたが、昭二が喘息患者であることを知っていたのであるから、窪田医師同様昭二の喘息の原因、発作の起る時期、発作の程度、身体状況等について問診や柴田医師への照会をなし、前記の如き術前検査をして手術に着手すべきであるところこのような医師として当然なすべき注意を尽さなかった。
昭二の喘息は従来の経過からみて一〇月は発作の起り易いものであり、一方昭二の虫垂炎の症状(激痛もなく、除去後の虫垂は何の異常もなかった)からいってそれ程切除を急がなければならないものではなかったのであるから、この症状を考慮して虫垂切除手術を喘息の発作のない時期、少くとも発作の少ない時期まで延期することも出来た筈である。また、昭二の虫垂炎の切除を或程度急ぐ必要があったとしても、昭二の喘息にとって一〇月が発作の起り易い時期であることと、同人は当時喘息発作が頻発しており本件手術当日前夜来の発作およびその後における腹痛やそれに対する処置のために極度に疲労し、睡眠も食事もとっておらずショック症状を起し易い身体状況であったのであるから、可能な限り同人の疲労の回復をまつと共に、術前の検査を行い喀痰を喀出させておくなどの予防措置を講じ、手術を行う際には最も安全な全身麻酔(以下全麻という)の方法で麻酔を施し、事故の発生を未然に防止すべきであったし、更に、昭二の虫垂炎の症状が本件手術当日の午後四時過ぎには切除手術をしなければ生命に危険を及ぼす程悪化していたと仮定しても現在では、外科的手術が麻酔科医によって独立して行われる場合が多くなってきており、麻酔技術そのものが専門化、高級化し、外科医の片手間に行い得なくなっており、麻酔科医は術中における患者の全身の管理をもすべて行うものであるなどを考えれば、本件では最低限度のこととして麻酔の方法の選択に当っては麻酔科医の意見を聞くべきであり、当時の昭二の喘息の症状を考慮するなら麻酔科医によって麻酔を施してもらい術中の管理もしてもらうべきであった。
しかるに、尾崎医師は、以上のような配慮を怠り、昭二の喘息を軽視し、何らの検討をなさずして慢然と腰麻を選択して本件手術を施行した。
(ニ) 窪田、尾崎医師らは、(Ⅰ)術前措置として医師の通常とるべき措置である、「術前にアレルギー或は喘息専門医の診療を受けて、喘息患者のもつ過敏性、アレルギー反応の有無、過去の治療歴とくにステロイドホルモンの過量投与による副腎皮質機能低下状態の有無等につき意見を聞き、かつ術中術後において万一喘息発作のおきた場合の処置について指示を受けておく」配慮もしていない。
(Ⅱ) 喘息患者の場合虫垂切除手術というストレスが誘因の一つとして喘息発作を起してくることはあり得ることであり、そのため術前措置として輸液を欠かしてはならないのであるから、術前より静脈を確保しておくのが好ましいところ、昭二についてこの措置はなされていない。
(Ⅲ) 喘息患者の手術、麻酔の前準備としてなすべき事項中、感染に対する措置を行っておらず、気管支けいれんの予防に関してエアゾル療法を行わず、貧血がある場合の是正、その他酸塩基平衡のアンバランスの是正の措置を行っておらず、心機能不全があればその診療を行うべきところ、前記の如き当時の昭二の身体的状況からみてこの点について治療を行うか少くともこの点について配慮をなすべきであったが、このような配慮もなされていない。
(Ⅳ) 手術に際しては、小児に使用可能な人工呼吸器および付属器械を用意し、小児科医、麻酔科医、看護婦らがチームワークをとりながら管理し、喘息その他喘息発作が誘発され呼吸管理が必要なときは直ちに全麻に切り換えたり、IPPBができる準備と態勢をとっておくなど容態に即応しうる準備と態勢を整えるべきところ、本件の場合、昭二が高度の不穏状態を示した後である当日午後四時三五分頃看護婦が人工呼吸器をとりに手術室から出ていっており、その他血管確保が十分いかなかったなど事前準備がなされていなかった。
(Ⅴ) なお、昭二の虫垂炎診断前行われた白血球の検査結果についても疑問があり、昭二に胸部の疾患がなかったという診断は極めて疑わしい。
更に本件事故後も尾崎医師が引続いて主治医として昭二の診療に当っていたが、同医師は事故後の傷病について専門医でなかったことは明らかであり、このような点にも被告に債務不履行、過失責任が認められる。
3、昭二は昭和四六年三月加古川病院で扁桃摘出手術をすゝめられ、柴田医師から同病院は喘息患者の手術をする設備がないから兵庫県立こども病院(以下こども病院という)を紹介されて同年五月七日同病院で全麻をかけてもらって扁桃摘出手術を受けたことがあり、本件手術当時も加古川病院には全麻を施す人的物的設備がなかった。
本件の如く全麻を施して手術をするのが適当と認められるのに全麻を施す設備がない場合には、そのような設備のある病院に患者を紹介し、そこで手術を受けさせるよう取計らうのが医師として当然なすべき義務である。昭二はこども病院の診察券を持っており当時一三才であって一五才まで同病院で診察を受け処置を受け得る状態にあったことは柴田医師も熟知していた。
加古川病院の医師が前記の如く医師としてなすべき連絡、問診、爾前検査を行う義務を尽していたなら、昭二を人的物的設備の整っているこども病院に移送し処置を受けさせた筈であり、同病院であれば綿密、周到な問診、診察、術前検査が行われ、手術をしたとしても万全の措置を講じて手術が行われた筈である。
しかるに加古川病院の医師らは前記の如く、問診等の義務を碌に尽さずして手術施行を決定し、人的物的設備の不十分な加古川病院で手術を施行し、その手術の過程で本件事故が発生したものであるから、被告は右義務不履行とは無関係な原因で本件事故が発生したことを立証しなければ本件事故について責任を免れない。
4 医師としては、手術前において、虫垂炎手術の重要性が万一の不慮の発作やその他の症状併発により優先して生命にかかわることを家族に告げておくべきであり、本件の場合これを告げられていれば原告らは昭二を当然人的物的設備の整っているこども病院へ連れて行っており、加古川病院で治療を受けたりしなかった筈であるところ、窪田、尾崎らはこれを告げず、窪田医師は、前記の如く昭二の喘息、身体的状況から手術の安全性について危惧の念を表明した原告伊津子に対し、手術は非常に簡単だから大丈夫であると述べ、柴田医師も、外科で大丈夫というなら大丈夫でしょうと無責任な返事をしたため、本件手術が行われるに至ったものであり、右医師ら従って被告に本件事故につき責任のあること明らかである。
(三) 本件事故の発生した原因は、昭二に対する麻酔、虫垂切除手術、同手術の過程において生じた喘息症状のいずれかにあり、いずれの点についても窪田、尾崎、柴田医師らが通常医師としてなすべき検討、事前準備を怠ってそのために事故が生じたのであるから、関係医師らの使用者として被告が債務不履行の責任および関係医師らの不法行為に関する使用者責任を負うべきことは当然である。
五、損害
(一) 昭二の逸失利益の相続分
左記方法によって計算すると昭二の逸失利益は三、〇四八、二二一円であり、原告らは昭二の父母として右金額の各二分の一宛の損害賠償請求権を相続により取得した。
記
(1) 就労可能年数 満一八才から四五年間
昭二の死亡時の年令一三才の男子の平均余命は、厚生大臣官房統計調査部編「昭和四四年簡易生命表」によると五七・九一年である。
(2) 月額所得 三六、四八〇円
神戸商工会議所調査部発行の「昭和四六年度兵庫県下におけるモデル賃金」によれば、上記金額が昭和四六年度の兵庫県下における高卒男子の事務部門における企業欄平均の初任給であり、昭二が生存して就職するとすれば最も低く見積っても上記金額の賃金を得ることができた筈である。
(3) 逸失利益現価の算定方式
ライプニッツ式計算方法
(4) 生活費控除率 五〇パーセント
(5) 以上によると逸失利益現価の計算式は
36480(円)×12(月)×(1825592546-432947667)×0.5=3048221(円)
となり、右三、〇四八、二二一円のうち原告らは各一二五万円宛を本訴で請求する。
(二) 慰藉料
原告らが各二分の一宛相続した昭二の慰藉料請求権および原告ら固有の各慰藉料請求権をあわせて原告らは慰藉料として各二五〇万円宛請求する。
(三) 弁護士費用
着手金および報酬の合計金額として五〇万円の弁護士費用を必要とし、原告らの各負担割合は各二分の一であるので、原告らは各二五万円宛請求する。
六、よって原告らは被告に対し、本位的に、債務不履行責任に基づき、予備的に柴田、窪田、尾崎医師および看護婦らの不法行為による被告の使用者責任に基づき、前項の損害計各四〇〇万円宛および同項(一)、(二)の合計各三七五万円に対する本訴状送達の日の翌日以降完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
(請求原因に対する被告の答弁)
一 請求原因一項は認める。
二 同二項中、窪田、尾崎、柴田各医師が被告の職員であること、昭二が加古川病院に昭和四六年九月二日から同月二七日まで喘息治療のため入院し、右治療に当った主治医が小児科医柴田医師であること、同年一〇月四日(但し午前六時頃)昭二が腹部痛(但し激痛)のため右病院に診察を受けに来、柴田医師が応急措置をしたこと、同日午前一〇時頃昭二が来院し、柴田医師の連絡により外科で窪田医師が昭二を診察し、同医師は急性虫垂炎と診断し、虫垂切除手術をすゝめ、同日原告らと被告との間に本件手術を目的とする契約がなされたこと、以上の事実は認める。
三 同三項中、昭二が昭和四六年一〇月四日午後四時過ぎから加古川病院で手術を受けたこと、同人が同年一一月二一日右病院で死亡したこと、原告ら主張の看護婦が加古川病院の職員であること、以上の事実は認めるが、昭二が本件手術によりひきおこされた意識障害により死亡したこと、直接死因が流動食の過剰投与によることは否認する。
四 同四ないし六項は争う。
(被告の主張)
一 昭二は昭和四六年九月二七日加古川病院を退院し、同月三〇日来院した際在籍校の秋季運動会を参観して支障がない旨柴田医師の診断を受けていたものであるが、同年一〇月四日午前六時頃腹部激痛のため救急車で加古川病院に診察を受けに来たので、主治医であった柴田医師は、診察したところ症状が外科の診察を要すると思われたので応急措置として注射(二〇パーセントブドウ糖液およびビセラルジン一・五ミリリットル)を行い、開院時間に再度来院するよう指示した。同日午前一〇時頃来院した昭二を柴田医師が連絡して外科主任医長の窪田医師が診察したところ、腹部所見で回盲部に抵抗があり虫垂炎ようの所見を認め、また血液検査で白血球が一七、三〇〇と増加している(通常は七、〇〇〇ないし八、〇〇〇)ため、胸部レントゲン写真をとったが胸部には炎症性疾患はなく異常を認めなかったので、急性虫垂炎と診断し入院の措置を行った。
ところで窪田医師は、昭二が喘息であるが既に軽快中であることを知っていたが、問診の際昭二が同日午前二時頃まで喘息の発作があったことを原告らより告げられておらず、レントゲン写真撮影未了で最終診断をしていない段階で、原告らから喘息の既往症があるからどうかとの相談があったので、通常虫垂炎の除去手術はそう心配ない旨原告らに話したことはあるが、原告らから手術についての危惧の点を繰返し念を押されたことはない。
原告伊津子が柴田医師に同様のことを尋ねたが、同医師も当時外科からの連絡もない段階で、昭二の喘息も軽快中であるため、外科の医師が心配ないというなら心配ないのではないかと答えたのみである。
原告ら主張の、加古川病院で扁桃腺の手術をするよう話したことはなく、この点は、右病院では扁桃腺の診察は昭二に対ししておらず、たまたま原告らが面識ある柴田医師に扁桃腺の手術についてどこの病院がいいかとの相談をしたので、同医師がこども病院が専門的に適当かと考え同病院を紹介したにすぎない。
そして窪田医師は、昭二の白血球の異常増加、喘息症の医学的見解並びに通常虫垂炎の除去手術はさほど心配したものでないことを医学的に説明し、昭二は既に喘息も軽快し退院していたことなどから、手術すべきだとの判断にたって、手術した方がいい旨原告伊津子に述べ、後刻手術の同意書が提出されたので同日午後四時過ぎから手術を行った。
窪田医師としては、小児の虫垂炎は大人に比べて病状の進行が早いことや喘息の治ゆ状況、虫垂炎の除去手術は手術侵襲が小さく危険性が少ないなどを医学的に勘案し、生命に対する危険性は少ないとの判断のもとに手術に踏み切ったが、不幸にして昭二は手術終了直前喘息の発作を起し意識不明のまゝ前記日時死亡した。
二(一) 本件手術は、外科医である尾崎医師および同科医師二名があたり、柴田医師も任意立会して行われたが、右手術に当っては喘息発作を警戒して柴田医師とも協議し、ステロイド剤、昇圧剤を投与、酸素吸入等の事前措置後、脊麻を行い虫垂切除術を施行した。
手術は順調に進んだが、終了直前に喘息発作が起り、ボスミン、ネオフィリン、昇圧剤点滴注射等の処置を行った。ところが手術終了直後急に呼吸停止、急性心停止をきたし、直ちに心マッサージ、人工呼吸、心内注射等の蘇生術を行ったところ、心拍動音を聴取し、間もなく頸動脈の拍動を触知し、更に血圧、呼吸等も正常状態に回復したが意識のみ回復しなかった。
なお人工呼吸器は手術室の一隅に常備されてあった。
切除後の昭二の虫垂所見は、明らかにカタル性虫垂炎である。
(二) 看護婦が昭二に対し過量の流動食を供与したと原告らは主張するけれども、患者に対する食事に定量はなく、医師の指導に従い症状により適量を投与するもので、昭二に対しても誤って四〇〇ccを供与したものではなく、医師の指示により投与したものであり、これが喘息発作の誘因となるとは医学上断言し得ないところであるから、右主張は失当である。
三 以上のとおり加古川病院においては、同院の能力範囲における万全の準備と事前の検討を行っており、本件の手術適応の決定、麻酔の選択は医師として通常のことであり、心停止に対する措置も適確に行い、同病院の可能な限りの人的物的条件を総動員して救命に当ったものであって、同院医師らの診断、行動、処置等について何ら義務違反はない。
四 本件手術の終了直後起った呼吸停止、心停止は、喘息発作による症状の変化と考えるには時間的に余りに早すぎ、他の何らかの原因によるものであり、そのために脳無酸素症が惹起されてその後の意識障害もこれによって持続したものと考えられる。従って昭二の本件事故につき、喘息の発作を前提とする原告らの主張はそれ自身不当のものと考えざるを得ない。
第三立証≪省略≫
理由
一 当事者に争いがない事実
(一) 被告は加古川病院を設立してこれを経営しており、医師である柴田始宏、同窪田秀雄、同尾崎敏彦および原告主張の看護婦某は、本件事故当時右病院に勤務していたものであり、昭二は、原告重田秋春、同伊津子の間に昭和三三年八月九日出生した二男であるが、昭二は、昭和四六年九月二日から同月二七日まで気管支喘息の治療のため加古川病院に入院し、小児科医柴田医師を主治医としてその治療を受けており、同年一〇月四日朝腹痛のため右病院に診察を受けに来、柴田医師から措置を受け、更に同日午前一〇時頃再び来院して、柴田医師の連絡で同病院外科医の診察を受けたところ、同医師は虫垂炎と診断し、昭二が喘息患者であることは知っていたが虫垂除去手術をすゝめ、後刻昭二の親権者父母である原告らと被告との間に本件手術を目的とする契約が結ばれた。
(二) 昭二は昭和四六年一〇月四日午後四時過ぎから加古川病院で虫垂除去手術を受けたが、手術中喘息の発作を起し、意識不明となったまゝ同年一一月二一日同病院で死亡した。
二 ところで、原告らと被告との本件診療契約は、被告が昭二の病的症状を解明し、その症状に応じた診療行為(手術も含む)をなすことを目的とする準委任契約と解するのが相当である。
三 本件事故発生までの経過
≪証拠省略≫を併せると、次の事実が認められる。
昭二は五才の頃気管支喘息が始まり、昭和四五年一〇月九日以降約一四日間喘息治療のため加古川病院に入院したこともあり、その際柴田医師から治療を受けたこと、昭二は前記の如く昭和四六年九月二日より第二回目の入院をし、同月二七日退院したが、退院当時は右入院当初より喘息発作の回数も減ってはいたが、右退院当日、その前日、前々日にも喘息発作はあり、その手当も受けたこと、昭二は同年一〇月三日午前一〇時頃より翌四日午前二時頃まで喘息の発作があり、発作が終って間もなく腹痛をおこしたため、同日午前六時頃加古川病院に来院して柴田医師の診察を受けたこと、同医師は痛みをやわらげるため二〇パーセントのブドウ糖二〇ccと鎮痛剤ビセラルジン一・五ccとを静脈注射し、虫垂炎の疑をもったので同日午前一〇時頃同医師の指示で再度来院した昭二の白血球検査をしたところ白血球数が通常七、〇〇〇前後であるのが同人は一七、三〇〇と異常に増加していたので虫垂炎の疑いありと考えて、同病院外科に、「昭二が喘息患者であり、当日午前二時頃より下腹痛を訴え午前六時頃来院した、現在痛みはない」旨および右白血球数を記載した院内診察依頼書により診察を依頼したこと、右依頼により同日午前一一時半過ぎ頃、外科医長の窪田医師は、外科医である尾崎医師が助手として在席のうえ、外来として昭二を診察したところ、触診で腹部に若干の圧痛と抵抗を認め、更に胸部レントゲン検査をしたところ、レントゲン写真に異常がなかったため、(1)腹痛を主訴として来院している点、(2)白血球数が異常に増加している点、(3)胸部レントゲン線写真に異常がない点から急性虫垂炎と判断し、柴田医師に対して急性虫垂炎であり手術をした方がいい旨通知したこと、窪田医師は、昭二が喘息患者であることを知っており、原告伊津子からも右診察の際、前夜から喘息の発作があったことをきかされていたが、小児の喘息患者でも喘息の発作を防止するような治療を施して行えば、虫垂炎除去手術による危険は少ないものと考え、また右病院では実際にも小児の喘息患者につき手術を行っていたことから、原告伊津子に当日手術をするようすゝめたものであること、手術の必要性の判断は外科医長が行うものであるが、窪田医師は右決定後外来として昭二を一緒に診察した尾崎医師を主治医に指定したこと、尾崎医師は右指定により本件手術を主治医として執刀することになったが、昭二の喘息については窪田医師と一緒に外来で診察したことにより、窪田医師と同程度に実情を把握したほか、術前手術場で柴田医師より、昭二には最近ステロイド剤を使用してないことを聞いた程度であり、窪田医師同様、喘息の発作の起る時期、原因等につき問診をしたり、柴田医師に照会したりしたことはなかったこと、昭二の喘息に対する術前措置としては、尾崎、柴田各医師、助手として本件手術に立会うことになった加古川病院外科医福永、同橋本各医師らが話合いの上、喘息発作の予防的措置として、ソルコーテフ(ステロイドホルモン)を打つことなどを相談し、柴田医師は、自己が主治医をしている患者の手術には立会うことにしているため、本件手術にも立会を申し出たため、手術において喘息の管理は同医師がすることになったこと、麻酔については、尾崎、橋本、福永各医師らが話し合って一般に行われている脊麻を選択したこと、手術は同日午後四時二四分開始(執刀)されたが、同四時一五分手術室に入り術前措置として、硫酸アトロピン〇・三ミリグラムと共に昇圧剤エホチール〇・五ミリリットルが注射され、喘息発作を予防するためソルコーテフ(ステロイド剤、副腎皮質ホルモン、以下同じ)一〇〇ミリグラムを筋肉注射したこと、同四時一八分尾崎医師が脊麻を施行し、麻酔と同時に喘息による呼吸管理の必要から酸素吸入(一分間三リットル)を施したこと、執刀後一分した同四時二五分に血圧が少し(88/40)下降したためエホチールを筋肉注射し、同四時二九分血圧が78/40となり口唇色稍不良となったため、点滴を施行し酸素吸入を増加(一分間五リットル)する措置をしたこと、同四時三一分虫垂切除時、血圧70/50、脈拍八八となり悪心嘔気を訴え、喘鳴を伴った呼気性の呼吸困難を来したので、すぐ喘息発作に対する措置として予め準備してあった二〇パーセントのぶどう糖二〇ccと強心、利尿剤ネオフィリン三ccをゆっくり点滴内に入れ、昭二が息が苦しいのか腕を曲げたため点滴が抜けたので一時右静脈注入を中止して、こんどはボスミン(エビネフィリン)〇・一ccを皮下注射しそれでも発作が治まらないので静脈をしばって静脈注射し始めたが、昭二があばれたため入れるのに時間がかかったこと、これらの喘息に対する措置は柴田医師が行い、この間虫垂切除手術は続けられていたが、同四時三四分脈拍微弱、血圧測定困難となり、同四時三五分虫垂切除手術終了直前、大声(異常呼吸音)を発してから、呼吸音、心音聴取不能となり、チアノーゼが現れたので、直ちに人工呼吸、心マッサージ、ボスミン心内注射をし、ノルアドレナリン、硫酸アトロピンを点滴内に注入し、マスクによる調節呼吸、続いて気管内挿管し調節呼吸を続行し、ソルコーテフ一〇〇ミリグラムを点滴内に注入するなどの措置を施したところ、同四時五五分拍動触知し、同五時血圧も上って(110/70)、脈拍一四四となり、チアノーゼも改善され、同五時一〇分自発呼吸を開始し、同五時二五分意識回復はみられなかったが血圧その他一般状態良となったので回復室へ移したこと、術後は、外科で尾崎医師が主治医として柴田医師と時々相談しながら昭二の診療に当っていたが、意識障害は続いたまゝ、翌五日時々回復の徴こうはあったものの、その後回復のきざしはなく、意識障害のため衰弱して同年一一月二一日死亡したこと、なお術後死亡までの間、昭二は喘息発作を二回起し、強直を頻回おこしたこと、切除された昭二の虫垂はカタル性虫垂炎に罹患していたこと、以上の事実が認められ(る。)≪証拠判断省略≫
四 昭二の死因について
≪証拠省略≫によると、昭二の死因は本件手術中における前記呼吸停止、心停止による脳障害(意識障害)であることが認められ、この認定を左右するに足る証拠はない。
ところで原告らは、昭二の直接の死因は、加古川病院の看護婦が死亡当日昭二に対し流動食を与えるに際し、適量二〇〇ccをこえる四〇〇ccを投与したことである旨主張する。
≪証拠省略≫によると、右同日夕方尾崎医師の指示により右病院の看護婦が流動食四〇〇ccを昭二に投与したところ、容態がおかしくなって嘔吐し、喘息発作の気配が出て呼吸困難となり、福永医師が昭二の胃内容物を吸引したことがあること、その夜一〇時一五分過ぎ昭二は急に呼吸状態不能となり同一〇時三三分死亡したものであることが認められるけれども、右投与した流動食が適量であったこと(≪証拠判断省略≫)や、死亡を来した右呼吸状態の不良が右流動食投与によることを認めるに足る証拠はないので右主張は採用しない。
そこで前記手術中の呼吸停止、心停止に至った原因について検討する。
村野鑑定には、喘息発作より窒息状態となり喘息死に至る症例では、日常の発作のために気管支拡張剤、副腎皮質ホルモン剤などの乱用例の場合をのぞき、最終の発作時より少くとも三、四時間の経過が認められるところ、本件では右のような薬剤の乱用が治療歴上認められず、本件心停止、呼吸停止は喘息発作による症状の変化と考えるには時間的に余りに早すぎ、カルテよりみて他の何らかの原因による呼吸停止、心停止である旨記載されている。
しかしながら、≪証拠省略≫によると、昭和四九年度の医学雑誌「小児科」上、昭和三六年から同四六年までの東京都監察医務院における気管支喘息患者の急死の剖検例は一五二であるが、このうち二六才未満の剖検三三例についての剖検所見で、心所見のあったもの二〇(六〇・六パーセント)あり、また、右三三名(ステロイド剤の使用状況は不明、吸入剤の使用状況は一〇例が連用しているが他は不明)のうち、最終の発作が始まってから死亡までの経過のわかっている二七例についてみると、右経過時間一〇分以内が四例(一二・一パーセント)、三〇分以内が九例(三分の一)ある旨の報告がなされていることが認められ、右事実と山下鑑定とを併せ考えると、(喘息の発作は本件心停止、呼吸停止の原因ではない旨の前記村野鑑定部分は採用せず)昭二の心停止、呼吸停止の原因は、脊麻による血圧の急激な下降、呼吸抑制、悪心、嘔気による喘息発作の誘発、更には気管支けいれんの併発からもたらされたものと推認され、他に右認定を左右するに足る証拠はない。
五 被告の債務不履行責任について
(一) 被告は、前記診療契約に基づき、麻酔および手術を施行し、手術後の措置を施す上で、一般に認められた医学上の水準的知識技術を行使して患者の生命身体に対する危険な結果の発生を未然に防止するべき義務がある。
(二) 手術適応の判断について
昭二の切除された虫垂がカタル性虫垂炎に罹患していたことは前記のとおりである。
≪証拠省略≫に前認定の事実を総合すると、小児の場合虫垂炎の経過が極めて早いので、早期に発見したときでも可能な限りの早い時期に虫垂切除手術に踏切るべきものであり、小児の喘息患者の場合でも喘息発作を防止する治療を施して行えば、虫垂切除手術も差支えないと考えられているところ、窪田医師は、昭二を本件手術当日診察した際は、同人が腹痛を主訴として来院しており、白血球数が一七、三〇〇と異常に増加し、胸部レントゲン写真撮影を行ってそれにも異常がないことを確かめて急性虫垂炎と判断し、同日中に手術を行うことを決定したもので、この判断、決定は医師として通常の措置であることが認められ、この判断に誤りがあったとの原告らの主張は採用できない。
もっとも、≪証拠省略≫によると、喘息の発作は季節的に集中するものであることが認められ、また、昭二は昭和四六年九月二七日加古川病院を退院した当時も未だ喘息の発作はあってその手当を受けており、同年一〇月三日夜半より翌四日にかけて喘息発作のあったことは前記のとおりであって、原告伊津子本人尋問の結果によると、昭二の喘息発作は夏から秋にかけて起ることが殆んどであり、本件手術当時、前夜来の喘息発作、発作に続く腹痛やこれについての治療のため、睡眠、食事は殆んどとっておらず体力が弱っていたことが認められるけれども、これらを術前、術中の措置に当って考慮すべきかは別として、右事実をもっても手術適応の判断に誤りがなかったとの前記認定を覆えすに足らない。
なお、原告らの手術の時期を延期すべきであったとの主張にそう昭二の虫垂炎が虫垂切除を急ぐ程度のものではなかった旨の原告伊津子本人の供述部分は、≪証拠省略≫に対比してにわかに採用できない。
また、原告らは前記白血球検査結果にも疑問があり、昭二に胸部疾患がなかったとの診断が疑わしい旨主張するが、昭二の術前の胸部レントゲン写真に異常がなかったことは前記のとおりであるし、≪証拠省略≫によると、昭二には術後である昭和四六年一〇月一一日、一五日、二〇日、二二日頃肺炎陰影があったことが認められ、≪証拠省略≫によると、原告秋春は術後一週間位して外科医より昭二の肺に異常があると云われた旨供述するが、≪証拠省略≫に照らすと、右事実や供述をもって、加古川病院における本件手術当日の白血球検査に誤りがあるとか、本件手術当日胸部疾患があったとまでは認められず、他に右主張を認めさせるに足る証拠はない。
(三) 術前、術中における検査ならびに措置について
1 柴田医師の措置について
村野鑑定によると、喘息患者に虫垂炎が疑われる場合には、通常小児科医としては外科医に患者の既応歴、経過を説明し診断を求めるべきであり、小児の喘息患者の場合はその起因、誘因、治療歴により各人各様の多彩な随伴症状を示すので、それらについて可能な限り実態を把握し外科医にコメントする場合もあることが認められる。
ところで柴田医師は、昭二の喘息の主治医として前記二回の入院に際し同人の診療に当っており、本件手術当日も同人を診察したが、同診察の結果虫垂炎の疑をもって白血球検査を経た上で、前記院内診察依頼書により外科に診断を求めていることは前記のとおりであり、外科医に対し、手術について積極的に詳細な既往歴、経過、当時の症状などを説明したり、手術について警告を発したりした形跡は証拠上認められないけれども、≪証拠省略≫によると、柴田医師自身にも昭二の喘息の原因は判っておらず、その旨同医師は尾崎医師に手術前に告げていることが認められ、前記認定の如く、柴田医師は、任意本件手術に立会って昭二の喘息発作の場合の管理に当ることとし、実際にもこれを行っているのであり、右事実からみて昭二の喘息の主治医であった柴田医師のなした措置は合理的なものとして是認することができ、前記説明、警告を外科医にしていなかったからといって前記の医師としてなすべき注意義務に違反したと認めることはできない。
2 問診、検査の不備について
村野鑑定によると、喘息患者に対する虫垂炎切除手術の術前検査としては、胸部レントゲン写真撮影、血液検査、心電図検査などを行い、とくに喘息の既往症、治療症を参考として術中術後における不慮の偶発症をおこす可能性を考えて可能な限りの配慮を加えて準備をなすべきものであると認められるところ、前記のとおり窪田、尾崎各医師は、昭二の喘息について、前記院内診察依頼書に記載された事項を知り、かつ、原告伊津子から前夜から当日朝まで喘息発作のあったことを聞かされた以上には、経過や病状を問うことも、柴田医師に対して右の点や昭二の喘息に対する意見等の照会も行わず、また、術前検査として白血球以外の血液検査、心電図検査を行った形跡は証拠上認められない。
しかしながら、問診、術前検査の目的は、患者の全身状態を把握すると同時に、手術適応の有無を判断するためのものと解されるところ、前記認定の事実と村野鑑定中、本件手術適応の判断は、救急疾患として当然のことである旨の部分とに照らすと、右問診、心電図検査等を行わなかったからといって手術適応の判断の点では欠けるところはなく(柴田医師に対する照会については当然これをなすべきものとまでは認め難い)、また、右問診、心電図検査等をしなかったことが通常の医師としての義務に違反したもので、従って右医師らが昭二の全身状態の把握に欠けていたといえるにしても、全身状態の把握は患者に対する術中、術後における適正措置を目的とするものであるが、後記のとおり、本件では術中、術後における措置に一部不十分なところがあったにせよこれと本件結果(心停止、呼吸停止およびこれに続く脳障害、以下同じ)発生との間に相当因果関係が認められないのであって、このことはひいては右全身状態の把握のための問診、検査の不備が本件結果の発生との間に相当因果関係がないことに帰することとなる。
従って右問診、検査の不十分ないし不備をもって被告に対する責任原因とすることはできない。
3 主治医の指定について
前記のとおり、喘息患者の治療に当った外科医としては、術中術後における不慮の併発症のおこる可能性を考えて可能な限りの配慮をするべきものである。
しかしながら、≪証拠省略≫によると、尾崎医師は加古川病院の外科医の中では一番後輩であり、医師としての経験は最も浅く、医師になってから本件手術当時までの約二年半の間に立会った虫垂切除手術は、二〇ないし三〇例あり、うち主治医として手術をしたのは数例にすぎないことが認められるけれども、同医師が本件手術を担当するだけの適性がないほど技倆が未熟であるとまで認めさせる証拠はなく(≪証拠判断省略≫)、医師の手持の患者数との関係からも、一定の場合に当該病院で最も技倆および経験のある医師を当然主治医に指定すべき義務があるとも直ちにいえるものでもないし、前記のとおり窪田医師は、尾崎医師を、自己と一緒に昭二を診察している関係上主治医に指定したことなどに対比すると、窪田医師の右指定が医師としての配慮義務を怠ったものとは断定できない。
4 脊麻の選択について
山下鑑定によると、「喘息患者に対する手術に際しての麻酔適応の選択については、医学上、脊麻などは第五胸椎以上に麻酔範囲が及ぶと第一から第五胸椎の肺に関係する交感神経が遮断され、相対的に迷走神経優越となり、気管支喘息が誘発または増悪されるので注意を要するとされており、開腹手術の場合、局所麻酔(脊麻もこれに当る)のみでは、痛みやりきみ、咳嗽などが起りこれが喘息患者に悪影響を及ぼすことがあるので全麻が適応であるとの意見もあるが、通常第五胸椎まで麻酔高が及ぶことは少いし、全麻でも気管内挿管を行う全麻は、局所麻酔に比し喘鳴を起す頻度が多いとの文献もあり、喘息患者の手術につき脊麻か全麻かは、それぞれ一長一短があって何れが適当であるとは決し難いものであり、喘息患者に脊麻が不適応とは断言できないこと、我国では脊麻で手術が行われることが多く、本件手術に際し脊麻を用いたことは不適当とは云えないこと、」以上が認められこの認定を左右する証拠はない。
なお、≪証拠省略≫によると、昭二は、昭和四六年三月加古川病院で扁桃左右肥大の診断を受けたことがあるが、これにつき柴田医師の紹介によってこども病院で受診し、同病院で同年五月七日全麻を施した上での扁桃摘出手術を受けたことがあることが認められるけれども、山下鑑定によると、右全麻は、呼吸管理が必要な手術であるために行われたものであることが認められ、この点と、前記脊麻選択の合理性とによれば、手術前に昭二の身体状況が不良であったことを考慮に入れても、尾崎医師に本件手術について全麻を選択する義務があったとの原告の主張は採用できない。
5 アレルギー或は喘息専門医の診療について
村野鑑定によると、喘息患者の虫垂切除手術前措置として、原告らが請求原因第四項(二)2(ニ)で主張するような、アレルギー或は喘息専門医の診療を受け、主張の如き意見をきき指示を受けておくなどの配慮が、出来得るならばなされた方がいいことまでは認められるところ、本件で右配慮のなされた形跡は証拠上ないのであるが、本件では右配慮をすることのできる状況にあったとの証拠もなく、従って右認定をもって窪田、尾崎らに当然右配慮をなすべき義務があったとまでは認め難い。
6 術前の静脈確保について
村野鑑定によると、喘息患者の場合虫垂切除手術というストレスが誘因の一つとして喘息発作をおこしてくることはあり得ることであり、輸液は第一に欠かしてはならないので、出来得れば術前より静脈を確保しておいた方が好ましいものであることが認められるところ、前記のとおり本件では、腰麻後約一〇分経過して血圧下降、顔色不良、チアノーゼ出現してから点滴を開始しており、術前の静脈確保の措置はなされていなかったことが認められるが、右鑑定自体からも、右措置がなされなかったことが医学的水準を明らかに下まわるもので、通常医師のとるべき注意義務を欠いたものであるとまでは断定できない。
7 山下鑑定によると、喘息患者に対する虫垂切除手術をする前準備として、喘息患者の喀痰を調べ、感染病原菌が存在している場合や、肺感染が考えられる場合は抗生物質を投与する、貧血がある場合これを是正し、心機能不全があればその診療を行う、気管支けいれんの予防としてエアゾル療法を行うべきものと認められるところ、本件では右措置がなされたことを認めさせる証拠はない。
しかしながら、右鑑定によると、虫垂手術の場合救急なので、前記準備をどれだけなすべきかは客観的情勢によって決すべきものと推認されるところ、≪証拠省略≫に照らすと、(心電図検査、白血球数以外の血液検査は前記の如くしていないとはいえ)本件手術前において昭二に貧血や心機能不全があったことを疑わせる証拠はなく、従って貧血や心機能不全に対する措置をとるべき情勢にあったとも認められないし、また、村野鑑定によると、エアゾル療法は人的物的条件の整備された施設ではじめて可能な療法であることが認められ、従ってかかる療法をとらないことが医学的水準を明らかに下まわるものとは断じ難い。
従って前記措置のうち、酸塩基平衡のアンバランスの是正をのぞいては(この措置については後に触れる)、窪田、尾崎各医師に義務違反があったとすることはできない。
また、術前喀痰排出を促し、気道を浄化するための措置がなされたことは証拠上認められないが、山下鑑定に対比し、右措置が通常医師に要求される義務と認めさせるに足る証拠はない。
8 呼吸管理の準備について
≪証拠省略≫によると、昭二が高度の不穏状態を示した本件手術中(午後四時三五分頃)、看護婦が人工呼吸器をとりに手術室から出て行ったこと自体は認められるが、≪証拠省略≫によると、人工呼吸器は手術室に予め準備されており、この準備されていたものを昭二に使用したものであることが認められ、(≪証拠判断省略≫)、従って人工呼吸器の不備についての原告らの主張は当らない。
次に、山下鑑定によると、本件手術に際し脊麻を用いたこと自体は不適当とはいえないが、喘鳴その他喘息発作が誘発され呼吸管理が必要となったときは、直ちに全麻に切り換えるなり、IPPB(間歇的陽圧呼吸)が出来得る準備と態勢をとっておく必要がある旨の記載があり、本件でこの措置およびその準備がなされた形跡を認めさせる証拠はない。
しかしながら、村野鑑定によると、麻酔医の協力で全麻に切り換えて行う救命方法の点は、人的物的条件の整備された施設でこそ可能なものであること、従って右措置が医学上の平均的水準とまではいえないことが認められるところ、同鑑定および弁論の全趣旨によると、加古川病院には右条件の整備がなかったことが推認され、この点からみて同病院の医師らに右措置および準備をなすべき義務があったとまで断定できない。
9 術前、術中の措置について
(1) 村野鑑定によると、術前の処置として、硫酸アトロピン〇・三ミリグラム、エホチール〇・五ミリリットルが注射され、喘息或いは薬剤ショックに備えてソルコーテフが注射されているのは妥当な措置であること、術中呼吸困難を呈し、血圧下降70/50、脈拍八八となり、更に心停止、呼吸停止を来したのに対しては、心マッサージ、気管内挿管人工呼吸法、ノルアドレサリン、硫酸アトロピン、ソルコーテフが注射されているなど、妥当な措置がとられていることが認められる。
(2) ところで右鑑定には、術前から頸静脈による輸液の処置がなされ、ソルコーテフなどは術前一時間に点滴内に注入されていた方がよかったかも知れない旨の記載があり、山下鑑定でも、手術開始までにネブライザーその他喘息発作を抑制する処置をもう少し行う余裕がなかったか。心肺危機に対する救急処置として、ソルコーテフを更に大量に用いた方が効果があったかも知れない旨指摘した部分があるけれども、輸液の点については前記6で判断したとおりこの点に医師としての義務違反は断定できないし、ネブライザーは、村野鑑定に照らし、人的物的条件の整備された施設で可能となる療法に属するものと認められ、従って通常医師に要求される義務とまでは断定し得ず、更にソルコーテフ投与の時期、量については、右各鑑定自体に照らし、本件ソルコーテフの投与が医学上の水準からみて、時期に遅れていたとか必要量に達していなかったとまでは断定し難く、従って前記各記載をもって前記各点において尾崎医師に医師としての義務違反があるとまで認め難い。
(3) 次に、山下鑑定では喘鳴開始とともにネオフィリンを静注したが途中で抜けたなど血管確保が十分いかなかった、(ロ)血圧下降、喘鳴発作開始時点ですぐ呼吸管理に入れなかったか、(ハ)心肺危機に対する救急措置として、重曹やTHAMを用いて血液のアルカリ化をはかってみては如何であったろうか等が指摘されている。
そして右鑑定および村野鑑定によると、右(ハ)の血液のアルカリ化の処置については、喘息発作が進行してくると呼吸性アチドーシスになる場合が多く、この状態はポスミン等薬剤の効果の発生を妨げるので、これを是正するため酸塩基平衡のアンバランスの是正が通常必要であることが認められるところ、本件でこの処置がとられた形跡は証拠上認められない。
また右(ロ)については、前記8のとおり、脊麻を用いた場合での喘鳴その他喘息発作が誘発され呼吸管理が必要なときは、IPPBを行うことが要求されているところ、本件ではこれを行っていない(なお、(イ)のネオフィリン静注したが途中で抜けたことについては、山下鑑定および前記認定によると、昭二が腕を曲げたため偶然に生じたことであると認められ、これをもって本件医師らに処置の不手際があったとするに足らない)。
従って右(ロ)(ハ)の点について尾崎医師ほか本件手術を行った医師らに処置不十分なところがあったというべきである。
(4) また、村野鑑定では、心停止後の処置が一歩遅れて処置をしている感がある旨、山下鑑定では、心停止を来したときの処置について、症状の急変に対する応急処置、心肺危機に対する救急処置が時間的に間に合わなかったものと思われる旨、各記載されているが、右記載をもって本件においてとられた心停止、呼吸停止に対する蘇生術が、医学上の平均的水準に達していなかったとは断言できない。
(5) 右のようにみてくると、尾崎医師には、前記(3)で認定した如く、術中、呼吸管理および酸塩基平衡のアンバランスの是正の点で準備および処置不十分があり、これが医師としてとるべき処置義務に違反することとなるが、右処置をとっていれば昭二の脳障害が発生しなかったと蓋然性を認めるに足るだけの証拠がなく、従って右尾崎医師の義務不履行と本件の結果発生との間に相当因果関係を推認することはできない。
10 麻酔科医の介助等について
≪証拠省略≫によると、本件手術に際し、昭二に脊麻を直接施したのは尾崎医師であり、麻酔科医の介助はなく(この点で、加古川病院の医師の中に、正規の麻酔科医の資格を有するものがあったことは証拠上判然としない)、術前、麻酔方法の選択に当り麻酔科医の意見も聞いていないことが認められるけれども、本件麻酔方法の選択が不適当であったといえないことは前記のとおりであるし、小児の喘息患者に虫垂切除手術をする場合麻酔科医の介助が当然要求されるとまで認めさせる証拠もない。
もっとも村野鑑定によると、「患者が高度の不穏状態を示した場合、麻酔科医の協力で全麻下で経口挿管し人口呼吸に移る……」救命方法がとられるべきことが認められるが、同鑑定によると、右は人的物的条件の整備された施設で可能な救命方法であることが認められ、医学上通常医師として当然なすべき措置とまで認めるに足りないし、加古川病院がかかる施設であることを認めるに足る証拠もない。
11 説明義務違反について
村野鑑定によると、医師は、患者に万一の場合の危険も起り得るので、術前に家族に対し、「虫垂切除手術の重要性が万一の不慮の発作やその他の症状により優先して生命にかかわること」を告げておくべき義務があることが認められるが、≪証拠省略≫によると、昭二に本件手術日、前夜来の喘息発作があったことから手術の安全性について危惧の念を表明した原告伊津子に対し、窪田医師は、手術は簡単だから大丈夫であると述べ、柴田医師も手術まで前後二回にわたって原告伊津子から手術の安全性を確かめられた際、外科で大丈夫というなら大丈夫でしょうと返事をしたのみで、右両医師は尾崎医師も含め、本件手術につき危険性を説明していないことが認められる。
従って右の点について、少くとも窪田、尾崎各医師には医師としての義務違反があるといえるが、同義務違反と本件結果の発生との間に相当因果関係があるとは云えないし、また、前記認定のように昭二が先にこども病院で扁桃摘出手術を受けたとの事実を考慮に入れても、右危険性の説明がなされていれば原告らが本件手術に同意しなかったと認めさせるに十分な証拠はない。のみならず、こども病院その他、検査、診療、施術において設備の完備している病院で昭二が虫垂切除手術を受けていれば、本件の如き結果発生を阻止し得た蓋然性があると断定するだけの証拠もない。
従って前記説明義務違反をもって被告に本件結果の発生について責任を問うことはできない。
12 他病院への移送義務について
通常の医師としては、現代医学が当然要求している通常かつ可能な治療方法と器機の利用を行うことができないときは、これができる病院へ患者を移送する義務はある。
そして、≪証拠省略≫によると加古川病院には本件手術当時全麻を施す人的物的設備がなかったと推認され、また、≪証拠省略≫を併せ考えると、本件手術当時一三才であった昭二は、前記こども病院で一五才まで診察、処置を受け得る状態にあり、これを柴田医師も知っていたこと、こども病院が、診療、検査、手術についての人的物的設備が完備した病院であること、同病院に比し、加古川病院は人的物的設備が劣ることは認められる。
しかしながら、本件の場合、昭二に虫垂切除手術を行うに際し全麻を施すのが適当であったといえないことは前示のとおりであるから、全麻が適当であったことを前提として加古川病院の医師らに昭二をこども病院その他全麻の設備のある病院に移送する義務があったとの原告らの主張は当らないし、また、≪証拠省略≫に照らすと、喘息患者の虫垂炎治療(虫垂切除手術も含む)につき加古川病院が、現代医学が当然要求している通常かつ可能な方法と器機の利用を行うことができない程度のものとまで認めるに足る証拠はなく、従って同病院の医師らが昭二をこども病院その他設備の完備した病院に移送すべき義務があったとすることはできない。
(四) 術後の措置について
前記のとおり、本件手術後昭二の死亡までの間は尾崎医師が主治医として昭二の治療に当っていたが、昭二の喘息発作は術後二回程起ったけれども同人の術後の傷病が、主として術中の心停止、呼吸停止による脳障害(意識障害)であったことは、≪証拠省略≫により明らかであるところ、右傷病につき尾崎医師が専門医でなかったとは云えず、更に、昭二の喘息について同医師は柴田医師と術後数回相談していたとの前記認定の事実をあわせると、尾崎医師が主治医として昭二の診療に当ったことに治療義務違反があったとも云えない。
(五) 右のようにみてくると、昭二の虫垂炎の治療に当った医師らの注意義務違反ないし過失として原告らの主張する諸点は、一部が医師としての義務違反があったとすることはできないか、義務違反があるというべき行為も本件結果の発生との間に相当因果関係を認めることができないのであるから、本件診療契約上の債務者たる被告に本件結果の発生につき債務不履行による責任があるとは認められない。
六 被告の使用者責任
前項(五)と同様の理由および原告主張の看護婦の流動食投与と本件結果の発生との間に因果関係がないとの前記認定によれば、加古川病院の医師らおよび看護婦に原告ら主張の如き不法行為の成立を認めることもまたできないところであり、従って右医師らおよび看護婦の使用者たる被告に民法七一五条による使用者責任があるともいえない。
七 以上の次第であるから、原告らの本訴請求は理由がないものといわざるを得ないので、棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 乾達彦 裁判官 武田多喜子 赤西芳文)